High-Sky-Fields

プロローグ

「……――本船は、東京から南南西に向かっておよそ1,200キロ南下し、大阪の真南、北緯20度に位置する中ノ島に航行いたします。ご乗船の皆様におかれましては……」
 なんだ、こんなものか、とがっかりする。
 せっかく宇宙エレベータの地上部分が位置する島に向かう超高速旅客船だというのに、なんとつまらないアナウンスだろう。
 ただ、露骨にそれを態度に出すわけにもいかない。なんせ私が引っ越しの荷物は船で運んだ方が安いからとか我儘を言って船移動にしてもらったからだ。
 しばらくクロスワードパズルを解いて暇を潰した。学生時代の暇な時間というのは、本来は熱心に読書に勤しむのが最もあるべき過ごし方なのだが、最低限に振動が抑えられているとはいえ船上であまり集中しすぎると酔ってしまう。

「奈佐、今日は早起きしてようやく落ち着いたからそろそろ食事にしない?」
「出発日はバイキングが開くのが遅れるらしいよ」
 視界の右上を見やる。10時27分。
 電波も圏外になっていない。ホテルのように船内にサービスで無線LANが付いているのは知っていたが、海の真ん中でも電波が途切れないことにはやはり驚く。このメガネも役に立ってくれるということだ。
「私は13時頃になったら行く」
「そっか、了解」
 よし。クロスワードを解いたり横になって眠ったりして、だらだらとした無為な時間を満喫しよう。高校2年生なのは百も承知。でも問題集は荷物に預けてしまったのだから、仕方がない。

「……奈佐ぁ~」
 ゆさゆさと身体が揺すられている。知らない間に眠ってしまっていたらしい。
 船がこんなに揺れていたら大惨事である。お母さんが私を揺らしているのだった。
「なぁに、お母さん」
「奈佐、ごはん食べに行こう?」
「はあい」
 身体を起こして、少しの揺れも感じなくなった床に立って伸びをする。
 それにしても、お母さんの距離感はなんとかならないのかな、と心の中で呟く。
 架空の高校生の友人――つまり小説内にだけ登場するような、よく言えば積極性に富んだ友人――か、あるいは恋人かのような距離感で接してくる。
 もちろん、自分の考えはきちんと持っている自立した人だし、そういうところは可愛いところでもあるから、不満ということはないのだけれど。
 レストラン会場の案内表示を前に、「奈佐はなに食べたい?」と振り返る屈託のない笑顔を見ると、この人が子どもなのか大人なのか分からなくなってしまうのだった。自分の親ながら、私はこれほど不思議な人に今まで出会ったことはない。

「そういえば、こうやって二人だけで食べるのは久しぶりだね」
「そうかな……中2の時の誕生日もお父さんが急に仕事が入って二人にならなかった?」
「あーそっか、まああの時はいろいろ頼んじゃってたし待つわけにもいかなかったからね。……いや、3年前は久しぶりって言わない?」
「そうだったかも」
 私の時間感覚も大概信用ならないな。このままでは残り少ない高校生活もすぐ終わったように感じてしまいそうだ。
 今日はお父さんは先に仕事に向かっている。ある夕方にカンケンショウの中ノ島支部に配属されることになった、と電話で言われたっきり帰って来ていないのだ。どうやら仕事帰りにそのまま送られたらしく、カンケンショウとやらは人遣いの荒い会社か、あるいはブラックな官公庁だなと思っていた。
「それにしても、お父さんが国際機関とはねえ」
「ビックリしたよね」
 やたらお父さんと連絡が取れなくなったので、叔父さんに何か聞いていないか、カンケンショウってどこなんですかと聞いてみると、電話の向こうでおばあちゃんを大声で呼んでいるのが聞こえた。
 かわるがわる相手が移り1時間にもわたる電話からようやく得た情報によると、カンケンショウとは、貫成層建築小委員会、つまり現在の国際静止軌道管理機構(OSOM)のことらしいと分かった。

「よし、ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
 食事は陸地がなくても楽しめることがわかった。これなら、きっと人工島でもうまくやっていけるだろう。
 会場の壁掛け時計は15時を少し回って、レストランから水平線を望む窓には斜めに日が射し込んでいた。



 それからしばらくはお母さん主導で船内をあちこち探検して、一日しか使われないであろう設備を堪能した。ダーツ台の横に居た警備員さんに聞くと、こういった設備は船が60キロメートル毎時よりも遅かった時代の名残で、ここ十年では、あえて船を遅くしてゆったりとした昔ながらの旅を楽しむお金持ちも居るのだとか。世界中が高速な移動手段の網に覆われたこの時代においては、もはや移動時間の暇さえ贅沢品なのだ。

 隣のベッドでお母さんが寝ている。動き回って疲れたのだろう。本当に子どもみたいな人だ。
 23時15分。
 そろそろ見に行くか。
 お母さんを起こさないようにベッドを抜けて、部屋を出る。
 質素な階段をいくつかのぼって、ドアを開けると、大窓の向こうに闇夜が待ち受けていた。
 灯台に登るように甲板から外に出て見たいところだったが、この船の速度では暴風になってしまうから、一般客は出港から加速までの30分程度しか甲板に出ることを許可されていない。
 その代わり、船の上部に360度を見渡せるガラス張りの回廊展望台が用意されていた。
 遠くに光っていた灯りがひとつスッと消えた。
 これから向かう中ノ島直上にある静止軌道ステーションが、地球の影に隠れたのだ。
 『きざはし』の天空ステーション。
 それははるか天上の構造物で、お父さんが支えている基地でもあった。
 乱立しながら相互にも結び付く静止軌道ステーション群は、まるで地球を軸にした自転車のスポークのような姿を成している。しかし、物理的な強さとしてはひもで吊った玉でしかなく、放っておくとすぐにカオスに陥ってしまう。だから常に姿勢制御が求められているのだが、専用のソフトを扱える人材が万年不足していた上に最近一人が辞職してしまった。そこでお父さんに白羽の矢が立ち、このように多少強引なヘッドハンティングを受けたというわけだ。
 宇宙の安定のためと言われれば止むをえまい。私だっていつか制御不能に陥った『天空ステーション』が36,000キロ上空から降ってくるなんてことは御免被りたい。
 しかし――。
 ガラスの向こうに広がる、砂粒のように星が散りばめられた黒洞々たる夜は、まったく見せかけの虚空でしかなかったが、それでも私を安心させてくれた。
 昔はよかった、と言うつもりはない。
 人類は宇宙へ進出した。ついに永続的な居住地を空の上に築くことに成功した。微小重力環境を利用した合金は私たちの生活にも利用されている。社会の教科書にはそう誇らしげに書いてある。
 それでも。
 この空は狭い。
 宵の明星と軌道エレベータを降下するコンテナとが隣り合う写真が美しいとよくSNSに上がっている。ちっとも芸術的なんかじゃないし、骨董品がもったいない。
 かつてフロンティアと謳われた宇宙は、少なくとも上空96,000キロメートルの範囲までは、地球人の気心知れた土地だ。
 たしかに人類は気軽に3次元空間を移動できる手段を得た。真の意味で空間を支配したと行っていいだろう。だが、人類はその代償として地球と地球上に暮らす人類全員を鳥かごの真ん中に配置することに決めたらしい。
 時刻は既に真夜中を越した。
 さて、そろそろ部屋に帰ろうか。
 また太陽がコンテナを照らして、闇を明かしてしまう前に。
 
 きっと中ノ島では、これほどほんとうに真っ暗の夜空は、見られなくなるだろうから。

Tower.

「えっと……あれ?」
 完全に迷った。まさかずっと昔から住んでる島で迷子になるなんて。リフレッシュしようと思って普段行かない森林公園に寄っちゃったのがまずかったかな。
 遠くに見える海が西日を反射してわたしを笑ってるみたいだった。
 ミスっちゃったなぁ。
 放射状でも碁盤の目でもいいんだけどさ、どこも同じような見た目なんだもん。
 油断してメガネも置いてきちゃったし、かといって電話かけて迎えに来てもらうのも恥ずかしいし。詰んだ……。
「計画都市だか知らないけど、こういうとこがさ……」
 思わず声に出てしまって、あたりを見まわす。危ない危ない。この狭い島はどこで誰が聞いてるか分かんないんだから。

「あの、ちょっと」
「ああいやそのごめんなさいこれはなんというか気の迷いと言いますか……あれ?」
 黒髪。眼鏡。高校生くらいの女の子。
「……あなたはどこから?」
「ええと、」
 こんな大人しい子は見たことがない。お客さんかな?
「えっとですね、」
 道案内モードに頭を切り替える。
「中ノ島でもここらへんは北区の中でも西寄りっていうかむしろ西区の北寄りぐらいのところだと思うんで、どっちに行くにしてももうちょっとタワー方面に戻って大通りに出たら17号の周回バスに乗ってもらうか路面電車の南北線が速いと思います。ネクストとかキザチカでお土産とか買いたいとしてもそれで大丈夫だと思います」
「その……」
「地下鉄でも行けるんですけど、あんま時間変わんないですしその割には高いんですよ。ここだけの話あれは『グラウンド』の敷地内に入るから国際ナントカの管理費が入ってるってことっぽいですけどね」
 ところが、どうやら彼女に必要なのは案内ではなかったようで。
「あの……わたし、観光客ではなくて」
「あれっお客さんじゃないの?」
「そうです、このあたりに来月から住む予定で……」
 ああ、そういえば、隣の家にトラックが止まっていたことがあったっけ。遅刻しそうになってた時だからあんまりよく覚えてないけど。
「それで、あなたもそうかなって……迷ってるように見えたから……ごめんなさい」
 まあ、そうだよね……。そう思っちゃうよね……。
 なんで迷ってんだろうね、わたし。
「いいっていいって!わたしここに住んでるんだ」
 自分で言っててすごく惨めな気持ちになってきた。
 小学校からここに住んでるなんて言えない。恥ずかしすぎる。
「最近私のお父さんがここに転勤になって、それでなんです」
「へえ、案外珍しいかも」
 この島の宿舎街にはいつでも代わるがわる色んな人が泊まってくるけど、このあたりの住宅街に新しく入居してくる人はほぼいない。この区に年に15人くらいの新顔が来るくらいで、あとは定住するなんてアウトオブ眼中で仕事が終わればこんな海にぽっかり浮かんだ辺境からさっさとオサラバしていく人ばっかりだ。
「あなたはどの辺に住む予定なの?」
「はい、ええと、北区横沢町左10-3です。スリー住所で《桜、猫、電車》の場所」
 聞き覚えのある住所。
「……あれ、おとなりさんだね」
 わたしは確か《桜、猫、たき火》だったはず。
「そうでしたか。私もここの高校に通うことになるので、もしかしたらまた会うかもしれませんね」
「学年が同じならクラス同じだよ。学年1クラスしかないから」
 その子は一瞬だけ複雑な顔をした。まあ内地の人からそういう視線を向けられるのは慣れっこだから、露骨に表に出さないでくれるだけありがたい。

「じゃあ一緒に帰りましょうか、ええと…」
「わたしはアリア。笹鐘アリアだよ。」
「ありがとうございます。行きましょう、アリアさん」
「ええっ、その、大丈夫?ここ来たばっかりなんでしょ?……あっそうか、メガネがあるもんね!助かった……」
 メガネにナビアプリがあればどうにだってなるもんね。渡りに船!まさに女神様…!
「いえ、住所が分かればなんとかなるので」
「えぇ、まさかこの島の地図全部覚えてるとか……?」
 この島に来月から完璧超人の女の子がやってくる……!?
「それは無理です!ええと、『横沢』ですよね。横沢だから北区の横のほうにあるんです。」
「……そうなの?」
 確かに、横木とか横畑とかあるけどさ。
「そうです。新上野も上……北にありますし。東区の『祭戸』はちょっと笑っちゃいましたね。サイドだから祭戸って……」

 そうなんだ。
 え?この島の住所ってそんな名付け方なの?ショック。
 馴染み深すぎてどういう意味で地名が付けられてるかなんて考えたこともなかった……。
「うそ……。」
 もうそれくらいしか声に出せなかった。
 その後は、なんとスリー住所がマンホールの柄になっているところまで教えてもらった。
 ああ、そっか……だからサクラの柄が入ってるんだ。っていうか、この島にサクラじゃない場所もあるんだ。
 移住案内用のパンフレットの隅っこに書いてあったらしい。
 そっか……。知らなかったな……。
 その子はわたしの様子を歩きながら気にかけてくれたけど、正直何も頭に入らなかった。
 この島に来て間もない子に道案内されて送り届けてもらっちゃった……。わたし小1からここに住んでるのに…………。

 泣きたい気分だった。空を見ながら帰った。
 海はもう色を持たないで、夜の暗さを帯びたタワーから伸びる雲を貫くケーブルが、水平線の下から射してくる夕日を受けてぴかぴか光って眩しかった。
 海に行きます?とその子が言ってくれたけど、また今度ね、と言った。
 連絡先も交換できず。とほほ。

「ただいま……」
 なんとなくとぼとぼして玄関を開けた。
「あらアリア、ずいぶんと遅かったわね」
「うん、ま、ちょっとね」
 おや、お母さんの機嫌がやたらいい気がするな。いつもなら怒るか注意するくらいするのに。
「なんか良いことあったの?」
「そうなのよ、おとなりさんが最近越してきたでしょ、そのお父さんから挨拶に高めのお肉をいただいちゃって!」
「なんとまあ」
「というわけで、今夜はすき焼きです!」
「やったあ!」
「あ、そうそう、高校生くらいの女の子も来てたのよ。お隣さんどうし仲良くできるといいわね」
 そうだね。わたしその子知ってる気がします。不思議なこともあるもんですね。
 すき焼きには奮発して買ってくれたっぽい卵が入っていた。おいしかった。
 また会えたら、ごちそうさまでしたって言おうかな。

re:Two.

「倉崎奈佐。海が好きです。よろしくお願いします」
 ホワイトボードにインクたっぷりで書かれた名前の横で、知った顔が紹介された。
 なにも聞かれていないのにすかさず手を挙げて隣の席を空けた。
「同じ学年だったんだね」
 こくり、と奈佐ちゃんが頷いた。
「この前は大変お恥ずかしいところをお見せしまして……」
 奈佐ちゃんは微笑んで、こくり、とまた頷いた。
「そういえば、その時に海に誘ってくれてたのは、海が好きだから?」
 こくり。
「ね、奈佐ちゃんって呼んでいい?」
 目がぱちくりして、こくり。
「ねえ、奈佐ちゃんの名前って、やっぱりNASAから?」
 奈佐ちゃんは不機嫌そうに、こくり。
「……あんまり、好きじゃないの?」
 少し表情が戻って、こくり。
「じゃあ今度からその話はしないようにするね」
 こくり。そして、奈佐ちゃんの口が開いて、
「いつか話すから」と返事をしてくれた。
 次に何を言おうか迷っていると、奈佐ちゃんの方から、
「……奈佐ちゃんって呼び方は、大丈夫」
 と言ってくれた。
 わたしも単純なやつで、それだけで嬉しくなってしまうのだった。
「わたしの名前言ってなかったね、わたしは……」
 途端に、頭上から名簿が降ってきた。
「いてっ」
「こら、アリア。授業中。倉崎が困ってるだろうが」
「いえ、困っては……。」
「ま、こういうやつなんだ。仲良くしてやってくれ」
「……!はい」
 また、目がぱちくりして、こくり。

 休み時間は、奈佐ちゃんはよく図書室に居た。
 たまにギリギリに帰ってくるので、教室で読んだりしないの?と聞くと、潮風は本に悪いから、ということだった。言われてみれば暑いから教室の窓ってよく開いてるもんね。
 気になって図書室の入り口付近からそーっと覗いてみると、とても集中して読んでいた。
 不思議と、奈佐ちゃんはどこか寂しそうな目だった。
 どこかで見たような目で、でもそれがどこかは思い出せなかった。

 ◆

 お隣さんなので、奈佐ちゃんとは一緒に帰ることになった。
「そうだ!あのお肉、ごちそうさまでした」
「いえいえ、お粗末さまでした」
「奮発して卵も入れてすき焼きにしたんだ、とっても美味しかった!」
「ふふ、上向いて歩いてたもんね」
「あっちょっとその時の話はずかしいからやめて……」
 ん……?どうしてわたしが空を見て歩いてた話になるんだろう。
 まあいっか。前会った時に逃したもう片方もやっとこう。
「連絡先も交換しようよ」
「ああ、うん」
 はい、どうぞ、と奈佐ちゃんの顔が近づく。
 視線を合わせてお互いに認証。
 あれ、奈佐ちゃんの眼、最初に会った時にしっかり見られてなかったけどよく見ると……。
 
「……眼、青い」
 [認証完了]の文字が表示されると同時に、奈佐ちゃんは驚いて飛びのいた。
「あれ、どしたの奈佐ちゃん」
「……間近でそんなことを言われると、はずかしいでしょう」
「そうかな?」
「そう」
「でも、海の色みたいで、すてき」
 そう言うと、ますます奈佐ちゃんの頬は色づいて、ガードレールの向こうに見える西日を反射した海とそっくりになった。
「もう、本当に、やめてってば」
 奈佐ちゃんのこんな顔見るの初めて。
 もう少しいろんな顔を探したかったけど、次のひとつを探す前にわたしたちの家が近づいてしまった。
「……そろそろだね」
「……そうね」
「じゃ、また明日ね」
「うん、またね」

 一番星はもう夜空に明るく光っていて、さっきまで夕日を受けて紅く輝いていたきざはしタワーの壁面は、ゆっくりと空に吸い込まれるように下から暗くなっていった。

re:re:Two.

 なかなか眠れない。
 ホームシック、というのでもないけれど。
 単に、知らない環境で落ち着かないからだろう。私がこの島で知っているところはほとんどない。スリー住所の規則や大雑把な方角なんかは単なる知識として分かっているだけで、見たことのない、馴染みのない場所だらけだ。
 そういうとき不思議と、知るようになったあの子を思い出すと安心する。
 そういえば、あの子をなんて呼ぶかまだ決めてなかった。笹鐘さん、かな。アリアさん、なんてのはまだくすぐったい。

 横になりながらカーテンを開くと、窓の向こうに暗闇に溶け込もうとするあのタワーがうっすらと見えた。ワイヤを行き来する鉄製の偽物の星が、相も変わらず仄かな航空障害等の横で忙しなく動いていた。
 すぐにカーテンを閉めて、窓に背を向けた。
 この島に降り立つ前から分かっていたことだ。
 ベッドの横のメガネ置きから音を立てないようにそっとメガネを取り出して、視線操作モードで開き、リストバンドを付け直す。万が一お母さんに見つかったとしても、外し忘れてたってことで誤魔化そう。

 あ……か……さ……笹鐘……。
 あれ?いない。上のほうに「アリア」でいる?いない。
 ……あ、見つけた。Aria。

起きてる?
奈佐

 目をつむって返事を待つ。
 しばらくするとサイレントの通知がしずかに浮上した。

起きてるよ
Aria

 さあて。どうしたものか。
 わたしから送ってしまったはいいけど、どう続けよう。

この島の空は好き?
奈佐

うーん
Aria

 ややあって、返事。

飛行機とかきざはしのゴンドラが上がっていくのはカッコいいなーって思う
Aria

ふたたび窓の方に向き直って、人工光に目をやる。
 たしかに、わたしも小さい頃は飛行機に憧れたものだった。雲を突き抜けてどこへ行くのだろう、と、見えなくなるまで飛行機雲の後ろから目で追いかけていた。その頃のことをひどく懐かしいと思った。

雲は好き?
奈佐

うん
Aria

なんだかやわらかそうで
Aria

……子どもみたいって思ったでしょ
Aria

思ってないよ
奈佐


 自然と笑みがこぼれた。
 わざわざ言わなければ、そんなことは思わないのに。子どもみたいって思われたくないのは子どもの一番の特徴。画面の向こうでコロコロ表情が変わっているのが浮かんでくるようで、やっぱり微笑ましいし、なんだか安心する。
 でも、そっか。
 どうしよっかな。わたしは。


天国って、どこにあると思う?
奈佐

 つい、こんなことを言ってもいいかなと思ってしまった。
 隣の家から、窓が勢いよく開く音が聞こえた。きっと笹鐘さんの部屋だ。
 わたしが何かしでかすんじゃないかと心配して、こちらの様子をうかがったに違いない。
 耳を澄ましていると、控えめにカラカラ……とさっき開いた窓を閉める音が聞こえた。
 そういうところが無性に、かわいらしいな、と思った。

 この島に来て、やっぱりわたしはどこかおかしくなっているのだと思った。
 あるいは、世界中のみんながわたしだけを取り残していったのだ。

大丈夫?
Aria

なにかあったら聞くよ
Aria

この島に来たばっかりで不安なことも多いと思うし
Aria


 やっぱり、この子は優しい。

今度、海に行こう
奈佐

 それだけ送って、またメガネとリストバンドを外して、わたしは眠りについた。
 今度はすぐに眠くなった。我ながら単純なやつだな、と思った。

or Twe(nty).

 昨晩の奈佐ちゃんからのメッセージが、まだ頭から離れない。

《天国って、どこにあると思う?》

 あれは、一体……。
「おはよう」
「あ、奈佐ちゃん、おはよう」
 昨日のこと、やっぱり聞いてみたほうがいいのかな。それとも、そっとしておいたほうが……。
「ねえ、笹鐘アリアさん?」
「は、はい」
「まずは図書室に寄ろうか」
 
 蒸し暑い季節が少しずつ始まって、学校の昇降口にたどり着くころには肌がちょっとべとついた。始業少し前の図書室には誰もいなくて、除湿のエアコンがかかっていて涼しかった。
「本って――」
 奈佐ちゃんが口を久々に開いたような気がした。
「本って、時間を越えて、書いた人と話せるって言うでしょう」
「うん、昔の人が書いた本でも、今のわたしたちは読めるんだよね」
「そう、読書は、ある意味で対話の側面を持っている」
 奈佐ちゃんが寂しそうな顔をしているのが不思議だった。
 いつもの図書室の奈佐ちゃんと同じ表情だった。
「でも、その対話はいつでも一方通行。本の側からわたしたちに語り掛けることはできても、その逆……わたしたちから本に語り掛けた声は、本には届かない」
 奈佐ちゃんは背表紙を撫でるようになぞりながら、目の前のわたしに語り掛ける。わたしに語り掛けているはずなのに、言葉が宙に浮かんでいるようだった。

「本は墓標なのよ」
 薄黄色のカーテンは少しずつ明るさを増していった。
 その前に奈佐ちゃんが立っているのが、なんだか天使みたいだった。
「ものを言う墓標――死者や、作者のすでに過去のものになった姿をその中に封じ込めて、読んだ者になにかを語り掛ける。でも、語り掛けているような気がするのは錯覚で、実際にはただ保存されているだけ。本は何も語り掛けてくれない」
 すぐにでも奈佐ちゃんがどこかへ行ってしまいそうなのに、一歩も前へ踏み出せない。
「墓標は、決してこちらに何かを語り掛けてくれることはない。ただ……ありし日の姿を固定できる形にしてその中に保っているだけ」
 奈佐ちゃんがカーテンに手をかけて、一気に開いた。
 街を背景にして、窓の前に立っていた。
 身体がうまく動かない。昨日の夜みたいにはいかない。
 ずらっと並んだたくさんの家が全部四角いのが、とても不気味に思えた。
「わたしも、本を書いておきたい。そう思う」
 この子は、きっとなにか重要なことをわたしに話してくれているんだ。
 もっと、知りたい。奈佐ちゃんのこと。

 始業5分前のチャイムが鳴った。わたしたちは一気に現実に引き戻されそうになる。
「ねえ、笹……」
「ねぇ、奈佐ちゃん」
 目の前のまぶたがちょっとだけ驚いたふうに開く。
「奈佐ちゃん――海に行こう」



 図書室で身にまとった涼しい空気をできるだけ剥がさないようにして、なるべく先生に見つからないように靴を履き替えて門を抜けた。
 なるべく見つからないように静かに歩いていると、いきなり音楽が聞こえたので焦った。
 音声通話の着信音だ。
 奈佐ちゃんのメガネからだった。慣れた手つきで奈佐ちゃんは電源を切る。
 それにしても、さっきの音楽はどこかで聞いたことのあるような、懐かしい……クラシックの気がする。
「……ねぇ、奈佐ちゃん。さっきの曲は──」
Air auf der G-Saiteエア・アウフ・デア・ゲー・ザイツ
「エア……空気?」
「そうだね、正解。もとは空気・雰囲気という意味の単語に由来する音楽ジャンル。だから英語で言うなら──」
 わたしの少し前を歩く文学少女は一呼吸置いた。わたしによく聞かせるためのもののはずなのに、なぜかため息のようにも聞こえた。
「──Air on the G-string」
 ……Gストリング。G線上のアリア、か。
 わたしの名前が空気の意味だってことも、奈佐ちゃんの着信音がG線上のアリアになっていることも、いまは気にならなかった。
 奈佐ちゃんは、すこし目を離してしまえばすぐ空気と混じりあって透明になってしまいそうだった。

 学校から真西の方角に出て、なるべく直線コースで海に向かう。この島に砂浜はないけど、代わりにゴムで作られた海岸がある。
 網が張ってあるからあんまり泳げないけど、と奈佐ちゃんに聞くと、泳ぐつもりはないから大丈夫、と返った。
 この島は人工島だから周りになだらかな砂浜の斜面がなくて、いきなり海の深さが何千メートルにもなるのよ、なるべくなら海に入らないことって、お母さんは言ってたっけ。
 ちょうど干潮の時間だったから、ところどころ海岸の塗装が剥がれて黒が見えているのまでわかった。
 海は本物ね、と奈佐ちゃんが言った。
 わたしにとってはこの浜も本物だけれど、奈佐ちゃんの知っているものとは違う。でも、海はどこでも同じだ。そう思うと、少し安心できた。
 浜に下りるコンクリートの階段の途中に座って、ふたりで海を眺める。

「笹鐘さんは……」
「アリアでいいよ」
「……アリアさん?」
「うん」
「アリアさんは、ニライカナイって知ってる?」
「うーん……なんとなく聞いたことがあるような」
「ニライカナイはね、沖縄とか奄美あたりの信仰に見られる概念で、いわば海の向こうにある理想郷……死者の魂が向かう場所」
 奈佐ちゃんは、きざはしの方に顔を向ける。
 ゴンドラが見えない直線に沿って登って行く。あの窓から、わたしたちも見えているんだろうか。
 登って行ったゴンドラは軌道ステーションに向かうことは分かっているはずなのに、いまは、あれはどこへ向かうんだろうと思った。
「わたし、小さいころ、雲の上に天国があるんだと思ってた……わたしも、アリアさんとおなじ。『おそらに行った』人たちはふかふかの雲の上で過ごしてるんだって思ってた」
 奈佐ちゃんが空を見上げる横顔を、初めて見た。
「わたしのお父さんがここに転勤したって、最初に会った時に言ったね。お父さんは、宇宙工学を専門にしてて、静止軌道にいくつも浮かんで互いに繋がっているステーションのバランスが崩れて落っこちてこないように調整するお仕事を、いまやってる」
「そっか、奈佐ちゃんのお名前……」
「そう、お父さんもお母さんも、宇宙が好きだったから。それで、きざはしができた時、せっかくだから宇宙に旅行してみようってことになって、」

 ――そこでわたしは初めて、どこの雲の上にも誰も住んでいないことを知った。

「わたしはゴンドラの窓から大気圏を見下ろす景色を眺めた。よく覚えてる――とても怖かった。空気が地球の薄皮みたいにのっぺり貼りついていて、そのくせそれ以外の空間にも何もなくて、青い地球はどこかへ投げられてしまいそうなくらいに頼りなかった。全部、からっぽだったんだ」
 奈佐ちゃんは空を見るのをやめて、少しずつうつむいていた。
「空の上に世界なんてどこにもなくて、見上げればすぐ届いてしまう。宇宙は寂しいところだって思った。――『海が好きな倉崎奈佐』の答え合わせは、こんなところ。海は深くて、底が見えなくて、遠くも見渡せない。だから……」
「奈佐ちゃん!」
 今にも泣きそうに眼がきらきら輝く少女は、驚いて顔を上げた。
「入ろうよ、海!ほらほら、靴脱いじゃって!」
 奈佐ちゃんの瞳の中にも、海が見える。波が押し寄せている。
「え、でも、服が」
「暑いからすぐ乾く!せーの!」
「わ、わわっ、と、と」

 ざぶざぶ、ざぶ、ざぶん。
 水の抵抗を足に心地よく感じる。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「う、うん」
「えへへっ、自慢の海なんだ」
 もっと。そんなに、寂しい理由だけじゃなくて。
 ざぶり、ざぶ。
「そぉーりゃっ」
 定番だけど。楽しい思い出を。
「ふふ、それっ」
「わぷ!あはははっ」
「えいっ」
「わっ、わ、あ、あれっ」
「奈佐ちゃんっ!」

 躊躇なく水に飛び込む。
 沖の方を見る。大丈夫。網が破れたりはしてない。奈佐ちゃんが外洋に吸い込まれたりはしない。ただ、思ったよりもすぐそこにある深い海にパニックになっちゃってるだけだ。溺れて居るのを助ければいい。
 浜を何メートルか滑り落ちた場所に奈佐ちゃんがもがいているのを見つけた。たぶんここから十メートルくらいの距離だけど、あの泡の出かたではそろそろ息を吐ききってしまう。
 一度海面に上がって、息を思いきり吸い込んで、まっすぐに潜る。
 よし。順調に奈佐ちゃんに近づいていける。
(奈佐ちゃん!)
 落ち着いて、とジェスチャーするけど、どうやら落ち着き方を知らないみたいだ。
 目をつむって、小さく頷く。
 わかった。アリアAirの出番だね。
 
 奈佐ちゃんの顔をぐいっと引き寄せて、海面から吸ってきた空気を分けてあげる。
 何が起こったのかと驚いてまた息をこぼしかける奈佐ちゃんの鼻をつまむ。
 しっかり吸って。わたしの空気を無駄にしないで。
 ゆっくり吹き込んで、しばらくすると奈佐ちゃんから息が返ってくる。
 まつげも髪も、ゆらゆら揺れている。
 藍色に染め直された太陽の光のあたたかい旋律が、懐かしいクラシックを奏でながらお昼をやわらかく教えてくれる。そうだった。小さいころ、お母さんが聞かせてくれた、このきれいな曲。美しくて、儚くて、静かな曲。
 わたしも奈佐ちゃんから息をもらう。
 しばらくの間そうしていた。
 溺れかけた海の中で、まるで世界中のここにしか酸素がないみたいに、お互いがお互いの命を吹き込んで、わたしたちはお互いを生かしあっていた。
 ……さすがにこのままだとどちらも溺れてしまうから、目で合図して海面へ上がる。
「ぷは」
「ふはぁっ」
 真上から降り注ぐ太陽の光がまぶしい。
「……」
「……」
 それに、水面も。
「上がろっか」
「そう、だね」
 強い日差しが、水から上がったそばからわたしたちの体を乾かしていく。涼しい風がわたしたちの背中を押す。
 また同じ段に並んで、座った。
「あったかいね」
「そうだね」
「日向ぼっこだね」
「……いいね、この島も」
 隣を見れば、奈佐ちゃんの清々しい笑顔だった。
 いま聞こえてくるのは波の音だけで、1秒1秒がゆったりと動いているみたいだった。
「……ねえ、アリア、……ちゃん」
「なあに?」
「きざはしが見える高台みたいなところ、知ってる?」
「うん、でも」
「だいじょうぶ。もう……吹っ切れた」
 とっくに服は乾いていて、手を引かれて立ち上がった。
 奈佐ちゃんのほうが何センチか背が高かった。
 歩き始めても、手は繋がったままだった。
「アリアちゃん?」
「どうしたの?」
「ふふ、高台に行ってから話すね」
 わたしたちは海沿いを歩いて行った。すぐに浜は終わって、その後には底まで数千メートルの深い海が続いていた。
 奈佐ちゃんが言うように、たしかに海が綺麗だった。さっきの水中から見上げたのとはまた違って、すべてを包み込みそうな揺れる青が、ところどころダイヤモンドをちりばめたみたいにきらきら光っていた。海の魅力がどんなところかなんて、初めて考えた。
 この島はそんなに広くない。周りをなぞるだけなら、すぐにこうして南西の縁まで歩いて来られてしまう。マンホールには、りんごが刻まれていた。

「アリアちゃん、さっきはありがとう」
「うん、どういたし、まし……て…………」
 ありがとうと言われるとものすごく恥ずかしくなってきた。
「――アリアちゃんのおかげで息ができた」
 奈佐ちゃんはきざはしタワーの斜塔を目で追って、ワイヤーの向こう側を見つめた。
「きっと、この先も、すこし息が苦しくなっても大丈夫なんだって思えた」
 繋がれた手がしっかりとわたしの手を握った。
「私は、ここを鳥かごだと思ってた。空には限りがあるんだって。……今もワイヤーに囲まれた地球が鳥かごみたいに見えるのは変わらないけど、でも、ちょっと違って見える」
 右手から、海中を思い出したみたいに奈佐ちゃんがゆらゆらと流れ始めたのが伝わった。
「階段に座って海の話をしたとき、私は海の広さと海の深さをしておきながら、その2つを別々に考えてた……実を言うと、それまで海に入ったことがなかったから。でも、飛び込んでみて、潜ってみて――溺れちゃったけれど――そのとき、私は3次元のどの方向にも自由に動くってことが身体で分かった」
 つられてわたしも浮力を思い出す。
 目を閉じると、思わず身体の内側が浮き上がる。
 わたしたちには、相変わらず重力がかかってはいる。でも、それを気にしなく・・・・・・・・ていい・・・
「きざはしとか、軌道エレベータが出来上がる前の……宇宙では、地球の周回軌道を単独でまわるステーションに人類が乗っていたころ。宇宙に着いた人類のほとんど全員が『宇宙飛行士』だったころ。宇宙に行くってことはほとんど、ふわふわ浮かぶってことだった。たしかに、地球の引力が及ぶ圏内で、ある人は重力の支配下だったって言うかもしれない。でも、彼らは重力から自由だったように見えた」
 ちょうど、さっき、わたしたちが浮力を受けて海中で漂っていられたように。
「さっき見た海は、空の色と同じだったから。――だから、もっと遠くまで。海にも空にももっと遠くまで、行こう。できれば、お互いに息を吸えるように、二人で」
 目を開けた。わたしたちの足は、ずっと高台の地面に付きっぱなしだったけど。
 かろうじて見えるワイヤーの横には、早くも月が浮かんでいた。
「じゃあさ、月とか行こうよ」
「月――」
「いい夢だと思わない?」
「……二人で?」
「ふたりで!」
 そのあとは、またしばらく二人で陸の上や海の中を浮かんでいた。
 鳥かごの外に飛び立つ夢を見ながら。



「……奈佐ちゃん」
「……どうしたの、アリアちゃん」
 わたしたちは、桜のマンホールの上に帰って、ためらっていた。
「……家に帰るの、こわいね」
「……そうだね」
 客観的に見れば、わたしたちはこの一日中、学校をサボって遊びほうけていたことになっている。なっている、というか、事実としてそうだった。もちろん、奈佐ちゃんが心の暗い部分を打ち明けてくれて、この島で暮らすのも前向きになれたみたいだし、わたしたちの間にはいろいろあった一日だったけれども。
 だったけれども……だからといって、すぐに日常が変わるわけでもない。1秒の長さが1秒に戻っても、世界はゆっくりとしか動かなかった。
 忍び足で玄関まで向かい、ドアノブを掴む。
 「せーの!」
 同時にドアを開けると……いつも通り帰った家と同じ様子だった。
 不思議がっていると、早めにお風呂に入るのを勧められた。いつもよりお味噌汁が温かかった。

 お風呂から上がって、思い出してメガネの電源を付け直すと、120件以上のメッセージがクラスのグループにやってきていて思わず一瞬でアプリを閉じた。
 一呼吸置いてからメッセージ一覧をよく見ると、見知らぬグループに通知が1件入っていた。先に見てみると、

大人になったら、休む前に一報入れること
Houston

とだけあった。
 思わず笑いがこみ上げてきて、奈佐ちゃんに通話をかけた。
 繋がってすぐに、窓を開ける音が隣から聞こえた。
 奈佐ちゃんが部屋から乗り出してこちらへ手を振っていた。
 奈佐ちゃんも笑っていた。
 まるで月みたいに、まんまるの、綺麗な笑顔だと思った。


エピローグ:ゼロ気圧の海

――Welcome to the Ground Pacific Earth Port at New-Isabela, the Galapagos islands. The Earth Station is your left side……

 ざぱん。ざぼ、ちゃぷん。
「まだかなぁ、奈佐ちゃん」
 今日は、奈佐ちゃんが地球に下りてきてくれるらしい。あの天から伸びるワイヤーを伝って、人類が最初に作り上げた軌道エレベータのふもとへ。
 そして、ここがわたしたちが巡った最後の砂浜だった。
 わたしたちは、もう25歳になってしまった。
 
「誰でしょう!」
「わ!……その声、メガネのレンズ部分に触らない、優しい奈佐ちゃんだね」
「はい。優しい奈佐ちゃんです」
「ちょっと焼けた?」
「まあ、いくら壁とか窓とかが紫外線を反射するって言っても、宇宙は紫外線の多いところだから」
 奈佐ちゃんは涼しい顔をしているようで、髪の毛先を指先でくるくるいじっている。
 もう。隠さなくていいのに。
「窓から地球をよく眺めてたから、でしょ」
「お見通しだね」
「……まあ、わたしもそうだったからね。職場の人に心配されるくらいには空を見てた」
 結局はおあいこなのだった。

「で、これからの予定は?」
「まずは、久々の砂と、久々の重力を楽しむ」
「そう来なくっちゃ」
「それから、十分ゆっくりしたら――」
 奈佐ちゃんは、先週居た場所よりもさらに上を見上げる。
「――ゆっくりしたら、海へ」
「そうだね」
 わたしたちは、いよいよ地球からも、鳥かごからも飛び立つ。
 あの遥か彼方の海へ。
 あの静かな海へ。
「……浮き輪、持ってけないかな」
「いいけど向こうだと割れちゃうよ」
「そっか、じゃあこっちで使おっか」
「うん。それは青い海のために」
「いいね、青い海のために!」
「乾杯?」
「乾杯!」
 わたしたちは笑いあった。
 また自由に潜って、漂って、浮かび上がろう。 

 ゼロ気圧の海でも、水がなくても、浮力が味方をしてくれなくても。
 あなたといれば、きっとどこでも、どこまでも。